私は、クリスチャンでありながら、熱心に神社参拝をしていた時期がある。その理由はふたつあった。
ひとつめは、ある大きな困難に直面したことがきっかけである。信じて神に願っていたのにかなえられなかった件があり、私は「なぜですか」と神に尋ねた。納得のいかなかった私は、「直接啓示(目に見える幻だとか、耳に聞こえる声だとか)」による答えを求めた。しかし、神からの答えは一切なかった。ついに神を信じられなくなった私は、あろうことか神に対して「嫌がらせ」をしてやろうと思った。そして、神の最も嫌がること、すなわち偶像礼拝をしようとして、神社に行ったのである。(神道は仏像のような形ある像を拝まないので狭義の「偶像礼拝」ではないとされるが、ここでは異教という意味での広義の「偶像礼拝」を指す。)
ふたつめの理由は、「日ユ同祖論」に傾倒し過ぎたことである。「日本人は古代イスラエル人の子孫である」とするこの説では、神道は古代イスラエルの信仰や原始キリスト教を受け継いで成立したものだとされる。神社はイスラエルの幕屋・神殿と構造が同じだとか、神輿は契約の箱を模したものであるとか言われる。そして、神社に祀られている神々も、本来はキリスト教の三位一体の神を表していると言う。天岩戸から出てきた天照大神は横穴式の墓から復活したイエスを指しているとか、稲荷は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を表すラテン文字「INRI」から来ているとか、八幡(ヤハタ)は「ユダヤ」を意味するヘブライ語「イェフダー」のなまったものだとか。
私は、この説に興味を持つあまり、自分も実際に神社に行ってみたい、神社で拝んでみたいという誘惑に駆られた。そして、ついに神社参拝を実行したのである。しかし、先述とは矛盾するが、私は異教の偶像礼拝をしているという認識はなかった。いや、偶像礼拝ではないと自分に言い聞かせていた。それは、神社に祀られている神々は本来は聖書の神なのだから、自分は別の神を拝んでいるわけではないという言い分。また、神はどこにでもご臨在されるのだから、神社という場所で、神道の作法で、あくまで唯一の聖書の神を拝んでいるのだという理由付けからであった。
私は次第に神社参拝にのめり込み、毎日のように神社に行き、合間を見てはあちこちの神社を訪ね歩いた。また、ネット上でクリスチャンに神社参拝を推奨する記事を盛んに投稿したりもした。一方、当時は教会からも離れがちで、私生活も乱れがちだった。一方、家族や他のクリスチャンからは神社参拝を理解・賛成してもらえなかった。そして、自分自身でも、正直常に疑問はあった。そんなこんなで、私は神社参拝を自粛することにした。もし私自身は偶像礼拝をしているつもりではなくても、私の行為で周囲の人々に誤解やつまずきを与えるなら、私はそれを避けるべきである(第一コリント8章参照)。
はじめのうちはまだまだ未練があったが、次第に私の心も解けてきた。一番のポイントは、ごく普通に、毎日の生活の中で、 静かに、地味に、聖書に向き合ったことである。神は、ほかでもない聖書から、私に語ってくださる。幻や声といった直接啓示ではなく、ただ聖書から。そのことを体験していく中で、神への信頼が回復していった。
また、いくつかのきっかけ(キリスト教雑誌やネットの記事)が同時期に重なって、今まで無知だった正教(東方教会)に興味を持つようになり、更にそこから発展してキリスト教会の歴史に強い興味を抱くようになった。―――それまで、聖書完結後、すなわち2世紀以降のキリスト教の歴史には関心がなかった。それどころか、ローマ帝国に公認・国教化された後のキリスト教は堕落しており、このローマ教会の流れを汲む正教やカトリック、プロテスタントといったいわゆる「正統派」のキリスト教は、正統どころかむしろ歪んだものだと理解していた。しかし自分はこの堕落したキリスト教の歴史をバイパスして、聖書を読むことを通じて、1世紀の純粋な原始キリスト教会から直接信仰を受け継いでいると思っていた。そして、神道には、原始キリスト教から直接伝えられた信仰の要素が保存されていると考えた。
ところが、キリスト教の歴史を学ぶうちに、私は原始キリスト教から一足飛びに直接信仰を受け継いだわけでは決してなく、ましてや神道を経由してでもなく、長いキリスト教会の歴史を介して信仰を受け継いだという事実に気がついたのである。具体的に言うなら、エルサレムのユダヤ人たちによる原始キリスト教会から始まった福音は、シリアのアンティオキアで異邦人に伝えられ(今日のシリア正教など東方諸派につながる教会)、小アジア(現トルコ)・ギリシアに広まり(今日の正教)、ローマからヨーロッパ全土に定着し(今日のカトリック)、宗教改革を経て(今日のプロテスタント)、英国からアメリカに渡って発展し(今日の福音派)、この日本の私たちのところにまで至ったのだ。その過程にはたくさんの過ちや失敗もあっただろう。(私は、今もなおカトリックとは教理上根本的に相容れないと考えている。)だがそれでも神は教会を用いてこられた。私が直接聖書を読むことができるのも、キリスト教会がそれを翻訳し頒布してくれたおかげである。それがわかった時、私が神道に留まる必要はなくなった。むしろ、「教会」というものの大切さを悟り、離れていた母教会の交わりへと復帰したのである。
古代にキリスト教が日本に伝わり、神道の元になった可能性までは否定しない。しかし仮にそれが事実だとしても、今の神道は聖書の教えとは似ても似つかない多神教に変質している。日本の民族精神を成す文化として尊ぶべき側面、グレーゾーンの要素はあるだろう。だが神社参拝のような直接的な宗教行為は、やはり「偶像礼拝」としてクリスチャンは避けるべきだと今は考える。

この記事へのコメント
アルス
つまり、一人の人間が多くの臓器・器官から成るのと同じ事です。
心臓・肝臓・目・耳等の臓器・器官の一つ一つを神として考えると、この考え方は多神教になります。しかし、これらの多くの臓器・器官から成るのが一人の人間であると考えると、この考え方は一神教になります。
日本の神道も、以上のたとえと同じです。そして、日本古代において、神道の最高祭司と天皇は、唯一神を明確に認識していました。時代が下るにつれ、精神的に腐敗堕落して、この真理を見失ってしまったか、あるいは、神の御計画に基づいて、この真理を意図的に隠してきたと考えられるのです。わたしは後者の可能性が高いとみており、神道の全貌が多くの日本人によって正しく理解される日が、間もなくやって来ると思っています。既に正しく理解している人は理解しているのですが、神の御計画により、万人大して、まだ公言できないのです。また、わたし自身も、神社神道の実に畏れ多い真実(日本の旧暦の秘密伝承など)を知りましたが、ここでは公言できません。
なお、偶像礼拝とは、日本人の文化慣習としての神社参拝や墓参りを指すのではなく、自称キリスト教による三位一体等の間違った諸神観とか、金銭利益至上主義、拝金主義(マモニズム)、人間中心主義に基づく個人崇拝、悪魔サタン崇拝、悪魔教会の虚偽と欺瞞の教理・祭儀・制度の中にどっぷりとつかって「毒麦」として育ち、未信者を含む不特定多数に「つまづき」を与える心の状態と言動を指すのです。
と意志を備えた独立の主体)が一つの実体として存在すると考えら
れており、これを三位一体といいます。
しかし、子なる神であるキリストの神としての性質(神性)を父なる神
の本質(ウーシア)とは異なるものと唱え、父と子はただ「類似本質
(ホモイウーシオス)を持つのみである、という考えが現われました。
これがシリアのアンティオキアでキアノスの下に学んだアリウスの
主張でした。
318年頃、アリウス派によるキリストの受肉(神の子が人間になった
ことを意味する)の否定を危惧した主教アレクサンドロスは、これを
異端として破門しました。
アリウスの破門を機にキリストの神性をめぐって全教会を巻き込
む大論争がおこりました。皇帝コンスタンティヌスによって招集さ
れたニカイア公会議では、アリウス説に対するアタナシオスの説(父
と子と聖霊が一つの本性であるという主張)が支持され、父と子は同
一本質(ホモウーシオス)であると宣言されました。
しかしその後も論争は続き、アリウス説とアタナシオス説はそれぞ
れ歴代の皇帝の支持、不支持にも左右されて正統と異端の間を往復
しましたが、最終的に381年のコンスタンティノポリス公会議でニカ
イア公会議を確認することによって一応の決着をみました。
この論争は、さらにキリストの人としての性質(人性)をめぐって、
キリストの神性と人性の一致を強調するアレクサンドリア学派と、
その区別を強調するアンティオキア学派の論争へと発展、両派はカ
ルケドン公会議に至るまで、論争を繰り返しました。
★三つの位格(知性と意志を備えた独立の主体)が一つの実体として存在するのではなく、人間が霊魂体の三重からなる一者であるように、神は父子聖霊の三重からなる一者です。トリニティではな、ワンネスです。
ローマ・カトリック教会の作りだした欺瞞の教理(トリニティ・日曜礼拝など)を盲信崇拝する信者の心の状態を「偶像礼拝」と言うのです。だから、三位一体論者が三位三体論者を批判する姿は、ある「偶像礼拝者」が別の「偶像礼拝者」を批判している愚かな姿に過ぎません。迷妄に囚われた人の頭で考えた事で議論する事の虚しさを分かって下さい。こうした迷妄な人智に基づく神学上の議論をするのではなく、「神の御霊」「聖霊」と心を一致させる事が何よりも大切であると聖書は教えています。
アルス
■「サタンの霊か、神の霊か?」花城健 2016/07/03
https://youtu.be/zgnWLVqgFsE
川崎さんに伝えたい事は、上記の動画に集約されています。悪魔教会の間違った教理を信じ続けて、それから離れない事こそ、偶像礼拝そのものです。
なお、神社参拝や墓参りは、偶像礼拝ではなく、自分の両親を敬うように、日本人のご先祖様と日本文化を愛し、これらの歴史と歩みに感謝の誠を捧げる道義・礼節・敬神崇祖の行為です。
「神のペルソナ(人格)は三つあり、その体は一つである」(三位一体神観)という教理は、川崎一郎、川崎二郎、川崎三郎という頭が三つあり、その体は一つであるため、川崎一郎が水を飲みたいと思って水の入ったコップに右手を伸ばすと、川崎二郎は酒が飲みたいと思って酒の置いてある場所に歩いて行き、川崎三郎はオレンジジュースを飲みたいと思って右手を左手で押さえ込んで冷蔵庫の扉を左手で開けようとする行為を肯定した混乱した「偽りの教理」です。「このように混乱した行動こそが本来の人間の在り方だ」という「偽りの教理」です。
偶像礼拝を止め、「無自覚の毒麦」として隣人に「つまづき」を与える言動を止め、地獄への道の歩みを止め、聖書の御言葉の真理を愛し、キリスト教の看板を掲げた悪魔教会に頼るのではなく聖霊のみに頼り、真理と霊的生命を取り戻して下さい。
川崎貴洋
神道に何か秘密が隠されているような考え方は、危ないと思います。救いに必要な真理は、既に聖書にすべて啓示されており、それは一部の人しかが知ることのできないような神秘ではなく、聞く耳さえ持つならば誰でも悟ることができるような、平易で私たちの近くにあるみことばです。(ローマ10:8)それ以上は、たとえ色々な深い意味が込められていたとしても、私たちが知る必要のないことです。(ヘブル9:5)
三位一体について、ネットなどでこうして弁明を求められる機会があっても、私はあえて深く説明しないことにしています。私には三位一体を説明することなどできませんから。真実なクリスチャンなら誰も三位一体を説明などできないはずですよ。神を人間に説明し尽くすことなどできるわけがありません。ただひとつ言えるのは、三位一体こそが正統と異端を分ける最低限の生命線だということです。
ご紹介いただいた動画は見てみましたが、はい、ちんぷんかんぷんです。カトリックだけでなくプロテスタントも「悪魔教会」として否定していることはわかりますけどね。私は動画は苦手なので、なるべく動画のリンクはおやめください。調べたら、このサンライズミニストリーとやらはSDAの分派のようですね。ここでも神社参拝の奨励や三位一体の否定を教えているのでしょうか?
アルス
もし、神の御計画に秘密がなく、誰にでも平易に理解できるだとすれば、「ダニエル書」「黙示録」等の預言は、どうなるのですか? 明らかに秘密はあり、神に敵対する悪魔悪霊悪人と、預言の秘密を知る必要のない者には隠されています。
なお、「三位一体こそが正統と異端を分ける最低限の生命線だ」という考えは間違いで、「神の霊か悪魔の霊かこそ、正統と異端を分ける判断基準」です。
世俗社会の政治権力と悪魔教会の権力が、正統と異端を分けてきたからこそ、自称の正統派教会が、異端審問裁判などを通じてキリスト信者を大量虐殺してきたのでした。同じ過ちを繰り返す愚行を止めましょう。
神社参拝は、日本人の両親を持つ個人として両親を敬う行為です。日本の伝統文化そのものであるの道義・礼節・敬神崇祖の文化的行為であって偶像礼拝ではありません。
三位一体説こそが偶像礼拝です。偽りと欺瞞の教理を信ずる事は偶像を礼拝する行為です。お金を拝む事と同じです。
悪魔サタンの虚偽と欺瞞の教理に執着している現状から見て、毒麦として育ち、自ら選択して毒麦として地獄に行く事をお望みであれば、誰も、それを止める事はできません。神の御霊・聖霊に対して、ちんぷんかんぷんのままでいるの当然でしょう。