天皇がキリストを信じたら~大嘗祭に思う

天皇即位に伴う大嘗祭が行われた。キリスト教界では「政教分離違反」「偶像礼拝」などとする批判の声が多数上がっている。一方で、日本人を古代イスラエル人だとか原始キリスト教徒の末裔だとする「日ユ同祖論」を掲げる人々は、大嘗祭は聖書に起源があるとする。「仮庵祭」が元になっているとか、キリストの死と復活を再現する儀式が中で行われているとか言うのだ。

どちらも極端だと思う。大嘗祭反対を叫んでいる人々は、実際は共産主義者などの左翼系勢力に踊らされているだけではないか。一方で日ユ同祖論者たちの言い分は、憶測に過ぎない。仮にそれが事実だとしても、現在の神道は聖書の信仰とは全く異質なものに変わっている。

いずれにせよ確かに言えることは、天皇は、国の安寧のために神々に祈る役割を果たす、神道に於ける大祭司、宗教的権威だということだ。「だから、天皇制は廃止するべきだ」というキリスト教界の多くからの声が聞こえてきそうだが、国民の幸いのために日々祈ってくれる存在というのは、非常にありがたいものではないか。「天皇制」に反対するキリスト者のどれだけが、そのような天皇の役割を知っているだろうか。しかし惜しむらくは、その祈りの対象が創造主なる唯一の神ではなく、八百万の「天神地祇」であることだ。もっとも、日ユ同祖論者たちは、神道の神々は本来聖書の神を表していたと言うだろうが。

もし、天皇が聖書の神を信じて、イエス・キリストの名に於いて国民の祝福を祈るようになるなら、どんなに素晴らしいだろうか。そうなれば、今、神道式で行われている大嘗祭などの祭祀も、キリスト教に則ったものとして営まれるようになるかも知れない。もちろん、それはあまりにも非現実的であろう。個人の自由が認められていない天皇・皇族が、キリスト教に改宗することは難しい。国民からの理解も得られないだろう。

仮にこれらの関門をクリアして天皇がキリスト教に改宗したとして、今度は別の意味での課題がある。かつてのローマ帝国やヨーロッパ諸国のように、キリストの名の下に天皇が即位するようになるならば、却って形骸化してしまい、天皇も国民も内面の信仰と関係なく「キリスト教徒」になってしまう恐れがある。それは教会の堕落の始まりだ。当然、政教分離にも抵触する。現在、天皇の政教分離を訴えている「左翼的」なキリスト者たちは、キリスト教が当事者となった場合でも、果たして政教分離を主張するだろうか。もちろん、神道とキリスト教がごっちゃになる宗教混淆に終わってしまう懸念もある。

それでも、「天皇制廃止」でも「神道儀式賛成」でもなく、やはり天皇がキリストを信じるようになることを願ってやまない。天皇が、日本の霊的な権威であることは確かだ。その天皇がキリストを信じるならば、日本民族全体が覚醒されてキリストを信じるようになる。聖書を見るならば、王や指導者の信仰が、その民全体の信仰に影響を及ぼしていることがわかる。日本の救いの鍵は、天皇が握っていると思われてならない。

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