しかし、本当に神に救われ、神と人格的に深く交わる時、理屈ではなく、体験的に、三位一体がわかる。人を救おうとする父なる神の愛、人の救いを完成させた子なる神イエスの恵み、その救いを人に知らせる聖霊の働きである。これらは確かに別々なのだけれど、それは同時にひとりの方から出てくるものでもある。だから、私たちは祈りに於いて、父なる神に向かって「主」と呼ぶのだけれど、いつしか子なる神イエスに向かって「主」と呼んでいたりする―――ああ、やはり、三位一体をことばで言い尽くすことはできない。何と奥の深い方であることか、三位一体の神は。
「三位一体」という用語や教理自体は、直接聖書に登場するわけではない。この教理は325年に開かれた「ニカイア公会議」で定められたものである。しかしそれは聖書にない新たな教えをでっちあげたということではない。聖書をよく読めば、三位一体が最も聖書にかなった教えであることがわかる。ニカイア公会議は聖書に「明記」はされていないが「明示」されている三位一体の教えを「確認」したのである。
アンドレイ・ルブリョフ「至聖三者(三位一体)」
このニカイア公会議の三位一体の教えを共有するのが今日の正統なキリスト教会だ。すなわち、ローマ・カトリックと東方正教会、そしてプロテスタントなどの諸派である。これらは他の教理に於いては著しい相違や対立事項をはらんでいる。プロテスタント福音派の立場から言わせてもらえば、マリアに祈るようなカトリックや正教などはとても同じ信仰とは思えない。それでも三位一体の教えに関する歴史的経緯を見るならば、彼らとは同じ「キリスト教徒」であると言うことができる。
ところが、こうした三位一体の教えを否定する集団、あるいは個人が現れることがある。人間には理解できない三位一体を人間に理解できる教理に置き換えてしまったり、ニカイア公会議の決定を単なる人間の政治的思惑の産物だとして認めなかったり。父なる神「エホバ」のみを神としてイエスや聖霊の神性を認めないエホバの証人(ものみの塔)や、逆に父・子・聖霊は三人の神々であるとする多神教のモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)などが代表例だ。彼らはもはや「キリスト教」ではない。異端すなわち偽キリスト教だ。正統と異端を分ける境界線が三位一体なのである。
最後に、私の体験を紹介して終わりたい。私はかつて日ユ同祖論に傾倒し、そこから発展して熱心に神社参拝をしていた時期がある。(詳細は「私が神社参拝をやめた理由」http://cavazion.seesaa.net/article/471151540.html参照。)教会からも離れ、聖書を自分勝手に解釈していた。その時強い影響を受けていたのが、漫画家でオカルト作家の飛鳥昭雄という人物だ。彼の著書は非常に興味深かったが、その中では三位一体を否定し、三位を三人の神々であると匂わすような記述があった。それもそのはず、飛鳥氏はモルモン教徒で、彼の説はモルモン教の教理に基づいていたのである。(「飛鳥昭雄説に隠されたモルモン教の罠」 http://cavazion.seesaa.net/article/469772404.html 参照。)
この説は当時の私にとって大変魅力的であったが、「もし三位一体を否定してしまったら、越えてはならない一線を越えてしまう」ということが私にはわかっていた。結局、神が私を守ってくださったので、私はその線を越えずに留まることができた。そして、正統なキリスト教信仰に帰ってくることができたのであった。
三位一体こそ、キリスト教信仰を守る最後の砦である。

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