戦争をどう見るか

「戦争は絶対悪だ」「武器を取って戦うことは人殺しだ」という、それこそ原理主義に凝り固まって、防衛のため(すなわち、人の命を守るため)の武装や軍事行動さえも否定する人々が、日本のキリスト教界には多い。そういう人々は、今回のウクライナのように一方的な侵略を受けた時さえ武力の行使は悪だとして、抵抗を拒んでむざむざ殺されるのだろうか。周りの人々が敵に殺されるのを指をくわえて見過ごすのであろうか。

彼らは日本国憲法第9条を聖書と同じか聖書以上に厳格に守ることを使命と考えている。しかし、憲法前文が謳うような「人間相互の関係を支配する崇高な理想」や「平和を愛する諸国民の公正と信義」に基づいた「恒久の平和」など紙切れに等しい。聖書は、人間の思い図ることは初めから悪であり、義人は一人もいないことを明言しているからだ。人間が自らの手で平和を造り出すことはできない。ただイエスが再臨した時にのみ、完全な平和は実現するのである。

逆に言えば、その時まで戦争がなくなることは決してない。むしろ、戦争が増えることを聖書は述べている。であるならば、「戦争反対」と叫ぶよりも、実際に避けられない戦争にどう備えるかのほうが大切なのではないか。

歴史を振り返ると、神が戦争を用いてご計画を実現されることがしばしばあった。第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)でユダヤ人国家回復が確立したとか、第三次中東戦争(六日間戦争)でイスラエルがエルサレムを奪還したとか、古いところではミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌス帝が勝利したおかげでキリスト教が世界に広まる下地ができたとか。

もちろんこれらがいわゆる「聖戦」だとか、正義の戦争だとか言っているわけではない。公にキリストの名に於いてなされた十字軍の戦いなどは、不毛且つ悪質なことこの上ない戦争だろう。戦争自体を肯定することはできないかも知れないが、戦争という「悪」さえも益とされる神のみわざにもっと目を留めるべきではないか。

・・・というようなことを言っていられるのは、あくまで日本が今平和だからかも知れない。戦争になったら恐らく何の戦力の足しにもならないだろう私のたわごととして受け流してくれればよい。

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