久しぶりに「日ユ同祖論」の話。改めて簡単に確認すると、「古代日本にイスラエル人がやって来て、日本人の先祖になった」という説である。私は過去2回ほどこの説に傾倒したが、今はこの説を批判する立場をとっている。「否定」ではなく「批判」であることに注意されたい。ある人々は、そもそも「日本列島にイスラエル人がやって来た」という事実自体が荒唐無稽なトンデモ話だとして全面否定する。
だが、私は古代日本にイスラエル人がやって来た「可能性」まではあると思う。あれだけ世界を縦横無尽に股にかけて活躍していたユダヤ人が、当時、意外に海外交流のあった日本へ渡来したと考えるのは自然なことである。そして偶然やこじつけ(これらが実に多いのではあるが)を差っ引いてもなお、イスラエルから日本にもたらされたとしか考えられない事例がいくつかあることは否定できない。
では何を批判の対象としているのかと言うと、日本人を「イスラエルの子孫」と見なすことにある。日本にイスラエル人が来ていたのなら、その血を引く日本人を「イスラエルの子孫」と言ってはいけないのか。ここで言いたいのは、創世記12章でアブラハムに授けられた祝福の契約の地位を受け継ぐ民族としての「イスラエルの子孫」のことである。
アブラハムの血を受け継いでいるだけでは「アブラハムの子孫」とはならない。イシュマエル人(今日のアラブ人)やエドム人、アマレク人、ミデヤン人たちはアブラハムの血を引いていたが、契約の民からは除外された。「アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。ローマ9:7」とあるとおりである。
もちろん、イエス・キリストによる十字架の贖いが完成した今は、どんな出自であれどんな民族であれ、イエスを信じるだけでアブラハムの子孫、イスラエルの民の一員と見なされる。「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。ガラテヤ3:7」「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。エペソ2:13」
しかし、アブラハムに与えられ、イサク、ヤコブ(イスラエル)へと受け継がれた祝福は、そればかりではない。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。創世記12:3」また「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。創世記12:7」というものである。更には、イスラエル人たちがイエスを信じてその御名を呼び求める時に、イエスが地上再臨すると考えられる(ローマ11:12、マタイ23:39、ゼカリヤ12~14章)。これらはクリスチャンに対してではなく、今もなお民族としてのイスラエル(ユダヤ人)に約束され続けているものである。
特に土地に関する祝福について考えてみたい。その約束の地「エレツ・イスラエル(イスラエルの地)」いわゆる「パレスチナ」を所有し、そこに住む権利が、ユダヤ人には今も約束されている。だから何世紀もの間ユダヤ人たちは、ごく少数を除いて、かの地から追放され世界に離散していた。にもかかわらず再びそこへ帰ってきた。19世紀の終わり頃から帰還を始め、20世紀には独立国家さえ再建し、21世紀になった今も帰還の動きは続いているのである。
もし日本人が「イスラエルの子孫」であるなら、日本人もまた大挙してイスラエルの地に帰還しそこに住むべきだし、そのような動きが起こるはずだ。そんなことをすればパレスチナ問題がますますややこしくなるだけだが、しかしそうする人々は誰もいない。何故なら、我々は「日本列島」という「約束の地」を既に持っており、そこに独立国家さえあるからだ。
これひとつ見ても、日本人はイスラエル人(ユダヤ人)とは別の独立した民族であり、約束の「イスラエルの子孫」でないことは明白である。したがって、イスラエル人に約束されている祝福にだけ目を留めて、それを手に入れたいと考え、日本人を「イスラエルの子孫」と見なす日ユ同祖論は、実におこがましい。私はその点を批判しているのである。
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