クリスマスと私

私は、子どもの頃からクリスマスが大好きだった。家庭でのなごやかなクリスマスは思い出深く、クリスチャンホームではなかったが幼稚園の時から教会に通っていたので、クリスマスは「イエスさまの誕生日」として特別な日と認識していた。だから、クリスマスは実際にイエスが生まれた日ではなく、異教(太陽神を拝むミトラ教など)の祭日に起源があると知った時は非常なショックを受けた。以来私は20年ほどに渡って、クリスマスを素直に祝うことができなくなってしまった。

ひな祭り、盆踊りなど、日本の伝統行事は、いかに今世俗化していても「異教に起源がある」という理由で禁ずるキリスト教会が、どうしてクリスマスだけは異教に起源があるにもかかわらず積極的に祝うのか。日本の伝統行事はだめで、西洋の伝統行事なら良しとする、このダブルスタンダードは何なのか。ひょっとしてクリスマスは、一年に一度だけ偶像礼拝が許される日なのではないか・・・。私は真剣に悩んだが、周囲でこの悩みを理解してくれる人は誰もいなかった。

唯一、たまたま図書館で見つけたカールトン・ケニー著『クリスマスについての考察』(暁書房/現マルコーシュ・パブリケーション)という本でこの問題が取り上げられていた。著者は、クリスマスの霊的問題(背後にある悪霊の存在)を指摘し、自らの牧会する教会ではクリスマスを祝うことをやめたとし、12月25日について「この日を贖おう」と呼びかける。この本もまた衝撃的であった。

ところがインターネットをやるようになると、世の中にはクリスマス否定派・反対派のクリスチャンが案外いることがわかった。かといって、顔を見知る私の身近にそういう人は皆無であり、その中で私一人だけクリスマスをやらないということは不可能であった。何より私自身クリスマスが大好きだった。だからこそ悩んでいたわけである。どうでも良かったら、「クリスマスなんて偶像礼拝だからやらない」で済んだのだから。

更に、自分でホームページを作って情報を発信するするようになると、その中でもクリスマスについてしばしば取り上げた。先入観に基づく伝統的な「降誕劇」のストーリーではなく、聖書が言っていないこと(イエスは馬小屋で生まれた、東方の博士たちは三人組だった、など)を廃し、聖書が言っていないけれど行間から読み取れることを資料や想像で補い(イエスが生まれたのは秋の仮庵祭の時期だった、博士たちが来た時イエス一家が住んでいた「家」は誰のものか、など)、私なりの降誕物語を書いてみたくなった。それで、ホームページに連載したものを元に、『イェシュアの誕生』(文芸社)という小説を仕上げて出版した。

ところで、そもそもクリスマスの何が問題なのか。それはキリスト教がローマ帝国に公認・国教化されていく過程で世俗化し、異教と混淆していったことの象徴だからだ。本当はイエスへの信仰を持っていない人々までが強制的にキリスト教徒へと改宗させられてしまった。そういううわべだけの偽クリスチャンたちは、彼らが本来信仰していた土着の宗教とその風習を教会の中に持ち込み、融合させてしまったことだろう。こうした非聖書的な負の遺産の代表例こそクリスマスである―というわけだ。

私も、純粋な聖書信仰を追求するあまり、聖書が完結した後の、ローマ時代以降の教会の歴史は無価値なもの、有害なものと考えていた。その流れを汲む現在の既存のキリスト教会もまた、不純なものであると考えた。折から、諸般の事情により、教会にあまり通わなくなったが、その背景にはこうした「教会不信」の影響もあったかも知れない。教会から離れた私は、その頃から信仰がおかしくなり、神社参拝にはまっていった。(「私が神社参拝をやめた理由」http://cavazion.seesaa.net/article/471151540.html 参照。)

だがある時、たまたま複数の記事で立て続けに東方正教会について読んだのをきっかけに、キリスト教会の歴史を学ぶようになった。その中でわかってきたことは、私たちは聖書時代のイスラエルから直接福音を受け取ったわけではなく、ギリシアやローマ、そしてその後継たるヨーロッパ文明を経由して福音を伝えられたということだ。当然、その過程ではギリシア、ローマ、ヨーロッパの文化の影響を受けることは免れ得ない。それが明確にキリストの福音と相反するものであれば、取り除かなければならない。しかし福音の本質に反しないものであれば、それを取り入れるか否かは自由である。

クリスマスは、その典型的な一例であろう。「異教の太陽神の誕生を祝う日が、キリストの降誕を祝う日に置き換えられた」という事実をどう見るか。「異教との妥協、混淆」と見ることもできるかも知れないが、異教を征服した勝利のしるしだという見方もできる。しかし、偶像神の祭として悪霊に支配されていた日が、真の神への礼拝の日へと「贖われた」という見方もできるのではないか。(「クリスマスの起源をどう評価するか」http://cavazion.seesaa.net/article/494421252.html 参照。)その辺がわかってきた時に、クリスマスに対する私のわだかまりも解け、再びこの日を素直に祝えるようになった。また期を同じくして、離れていた教会にも復帰した。

私がクリスマスを肯定するようになると、今度はネット上で私に対して「悪魔崇拝者」だと罵る人が現れるようになった。クリスマスを否定すればこちらから叩かれ、クリスマスを肯定すればあちらから叩かれ、本当に嫌になる。だがクリスマスを祝おうが祝うまいが、どちらも神のためにそうしているのであって、互いにさばいたり見下したりしてはならないというのが聖書の勧めではないか。

「ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。ローマ14:5~6」



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