「コリント人への手紙第二」後半には、コリントの教会に入り込んだ「偽使徒」たちの教えから信徒たちを立ち返らせようとするパウロの、厳しくも愛に満ちたことばが記されている。その中でパウロは偽使徒たちを皮肉たっぷりに批判する。そこから、偽使徒たちはユダヤ人であり、「ヘブル人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」(いずれもユダヤ人の血筋を表す)という自分たちの血統を誇っていたことがわかる(11:22)。パウロは自分も同じだと言って相手をやり込めているわけだ。
現在の日ユ同祖論者たちもこの偽使徒たちと同じではないか。彼らは自分たちを何としてもイスラエル人の子孫にしようとする。そのため様々な奇説・珍説を次々とひねり出す。だがその根底では、イスラエル人という特別な民族の血統に名を連ねることで、自分たちが何か偉い存在であるかのように誇ろうとしているのではないだろうか。彼ら自身は否定するかも知れないが、少なくとも深層心理にはあると私は思う。
だが、そのようなものは神の前では何の意味もない。誤解しないでほしいが、私もイスラエル人(ユダヤ人)は昔から今に至るまで特別な民族であると考えている。しかしそれは、彼らが神からの使命を託された人々であるという意味であって、彼らが偉いとかほかの民族より優れているとかいうことではない。
いつも言うことだが、日本人がイスラエル人と同じ祝福を神から得たいと願うなら、自分たちの血統をイスラエル人につなげようとするのではなく、イスラエル人の中から生まれたイエス・キリストを信じることによって、信仰による「アブラハムの子孫」となることである。パウロが偽使徒たちに対抗して誇りとしたのは、自らの「弱さ」であった。人の弱さの中にこそ神の力は働くからである。たとえイスラエル人の血を引いていなくとも、自分の弱さを認めてイエスに頼るなら、それこそが誇りとなる。
この記事へのコメント