ユダヤ暦では、今、「仮庵祭(かりいおのまつり)」の最中だ。イスラエル人の先祖たちが荒野を旅していた時、仮庵(テント)生活をしていた事を記念する祭であり、また秋の収穫感謝祭でもある。
毎年この時期になるとSNSで何かしら発信しているのだが、イエスが実際に生まれたのは、この仮庵祭の時期だという説がある。その根拠について詳細は過去記事に譲るが、この説を知ったことは私にとって非常に大きな意味があった。
私は、幼稚園の時から教会に通ってきたが、クリスマスは「イエスさまの誕生日」と教わってきた。「イエスさまの誕生を祝う日」とは教わらなかった。キリスト抜きに祝われる世間のクリスマスを軽蔑し、キリストの降誕日としてクリスマスを祝う自分にどこか優越感を抱いていた。
だから、クリスマスが実際はイエスが生まれた日ではなくむしろ異教の祭に起源があると知った時は、ショックだったのだ。厳密に言うと最初にそれを知ったのは中学生の時、聖書通読誌のコラムからで、その時はまあそれほどでもなかったのだが、問題はもう少し後年、青年になった頃である。教会のクリスマス会の余興でクリスマスに関するクイズをやることになり、図書館などでクリスマスのことを色々調べた。すると、クリスマスの日付けはもちろん、その様々な風習の多くが異教に由来していることを知ってしまったのだ。
私はすっかり混乱した。クリスマスは、偶像礼拝ではないのか。ひな祭りとか盆踊りとか日本の伝統行事は「異教に起源があるから」という理由で禁じるのに、西洋のクリスマスは異教に起源があっても無批判に受け入れるのか。キリスト抜きにお祭り騒ぎしている世間のクリスマスこそ、本当のクリスマスなのではないか。クリスマスは、年に一度偶像礼拝をしてもいい日なのか……?
周囲のクリスチャンは「まあ、それはそれとして」「今は、キリストを礼拝する日になっているのだから」「日付けが重要ではない」などと言うばかりで誰も理解してくれなかった。唯一、図書館で見つけたカールトン・ケニー著『クリスマスについての考察』(暁書房/現マルコーシュ・パブリケーション)という本だけが、クリスマスの異教的問題点を指摘していた。その著者はクリスマスの異教的要素を知って、祝うのをやめたと言う。
だが私はクリスマスをやめられなかった。何より、私は何だかんだ言ってもクリスマスが好きだから。どうでも良かったら、「クリスマス?そんなの偶像礼拝でしょ」で済む話である。クリスマスが好きだからこそ、悩むのだ。また、家族も教会も世間も皆こぞってクリスマスを祝っている中、一人だけ祝わないと言うのは実際問題として不可能だった。こうして私は、もやもやを抱え込んだまま、クリスマスを素直に祝うことができなくなってしまった。
その過程で、イスラエルと関わるようになり、「イエス仮庵祭誕生説」を知った。異教に起源のある「誕生を祝う日」ではなく、聖書に根拠を持つ
「実際の降誕日」がわかったことは、大げさに言えばある意味「救い」であった。「日付けの問題ではない」と人は言うけれど、私はそのようには割り切ることができず、日付けの問題でつまずいたからだ。(但し、この説にも解釈の余地があり、断言できるわけではないこともおいおいわかったが。)
とは言え、状況が変わったわけではない。周囲に仮庵祭に降誕を祝う人がいるわけでもない。私はその後も長い間クリスマスの問題で悩み続けた。ただ、今で言うSNS(当初はホームページだった)で、「イエス仮庵祭誕生説」を始めとするクリスマス問題について発信を続けた。それらの考察を踏まえたイエスの降誕物語『イェシュアの誕生』(文芸社/絶版)も執筆・出版した。
そんなこんなで20年ほど悩んだ挙げ句、今では素直に12月25日のクリスマスを祝えるようになった。妥協の結果であるかも知れない。しかし、キリスト教会の歴史について学んだことも大きい。私たちはエルサレムの初代教会から直に福音を受け継いだのではなく、シリアやギリシア、ローマなどといったアジアやヨーロッパ、更にはアメリカに至るまで色々な国々の人々の手を介して伝えられてきたのだということを、改めて認識させられた。そして、その過程で、良くも悪くもクリスマスに象徴されるような諸民族の文化の影響を受けたのだということを、肯定的に受け止められるようになった。
それでも、今も仮庵祭の時期になったら、イエスの降誕を思い出さずにはいられない。ひとり密かにクリスマス・ソングを口ずさみながら、こうしてSNSへ投稿をするのである。

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