今、中山茂大著『旅人思考でイスラムと世界を知る本』(言視舎)を読んでいる。イスラム圏を中心に世界を旅した著者が見聞きした、一般市民の生の姿を描き出すショートエッセイ集である。1話につき1〜2頁という短さと、平易な語り口、そして内容のおもしろさからスラスラと読めてしまう。半分ほど読んだところだが、気になる記述が出てきたのでちょっと立ち止まってみた。
この著者、イスラム贔屓(信徒ではない)の反動か、キリスト教にはあまり良い印象を持っていないらしい。殊にエジプトのコプト教会の装飾に関しては「おどろおどろしかった」「不気味」「なんでキリスト教徒は、こういう陰鬱な、狭くて薄暗いところが好きなんだろうか」と酷評している。いや、同じキリスト教でも我々プロテスタントから見れば、東方教会やカトリックの装飾には確かに違和感を覚える。
しかし、次の例はどうだろう。リスボンの博物館に安置してあるというキリスト像。「身体中に無数の傷を受けたイエスが磔刑に処せられており、その五つの傷口から膿のような血がドロドロと流れ出しているのだ。」著者はこれを「見るに堪えないグロテスクなもの」と評する。「普通の日本人ならば……顔をしかめて二、三歩後じさりするに違いない」と、これが日本人に普遍的な反応であるかのようにも言う。
もちろん、著者もキリストの受難の意味は知っている。だから、堀田善衛氏のことばを引用する形で、「イエスが処刑される直前に受けた拷問の数々と、その苦痛は、人間の罪そのものである。従ってイエスが苦痛を味わえば味わうほど、彼が背負っていく人間の罪は大きくなる。その苦痛が大きければ大きいだけ、贖罪の意義は大きくなるのである。」と述べている。
だが著者は、こキリストの十字架を、あくまで外見から「グロテスク」なものとして見ることしかできない。キリストの苦痛が大きければ大きいほど贖罪の意義が大きくなる、だからキリスト像はその苦痛を強調しグロテスクになればなるほど価値が出る。これを著者は、呆れたかのように、嘲るかのように、「グロテスクのインフレーション」と呼ぶ。
だが我々クリスチャン(聖像を用いないプロテスタントであっても)にとっては、キリストの十字架がグロテスクなのは当然なのではないか。なぜなら、キリストの苦しみは、私たちひとりひとり自身の罪に対するさばきの身代わりであったからだ。あのグロテスクさは、私たちの心の内に巣食う罪の醜さなのだ。キリストは、その醜い罪を一身に引き受けてくれたのだ。
私たちは、とかく十字架を美化しがちである。装飾化されたアクセサリー。像や絵画にしても、美しく表現されたものも多い。しかし実際の十字架は醜く、恐ろしいものだ。昔、キリストの受難を描いた『パッション』という映画が公開された時、その表現がリアルなあまりR指定されたことがある。(実際、ショック死したおばあさんがいたという。)
キリストを信じていない人は、「不気味」「日本人なら後じさり」と嘲るかも知れない。しかし信じる私たちにとっては、キリストの十字架は誇りである。なぜなら、あの醜い苦しみは、私たちをグロテスクな罪から救うための、神の愛のしるしだからだ。私たちの罪が大きければ大きいほど、神の愛もまた大きい。「グロテスクのインフレーション」、大いに結構である。
「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。イザヤ53:3」
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