餅をきっかけに日ユ同祖論を考察する

正月だ。正月と言えば餅である。私は餅が大好物だ。「一番好きな食べ物」と言ってもいい。最も好きな食べ方は、何も味をつけないで白いまま食べることである。いろいろな味をつけても旨いが、餅そのものが好きなので、素の味を味わいたい。

ところが最近、変化が出てきた。一番好きな食べ物の同列ぐらいにつぶあんが急上昇してきたのである。であれば、餅とつぶあんをかけ合わせれば更においしくなること間違いない。というわけで、つぶあんを添えて餅を食べるのも好きになったのだ。(あんが内側に入ることで餅の生地が薄くなってしまう大福や、汁物のお汁粉ではだめである。) だが、子どもの頃はそこまで餅にこだわりがなかったように思う。私が本格的に餅を好きになったのは、日ユ同祖論に傾倒した時ではないだろうか。詳しくは後述するが、日ユ同祖論では餅は過越祭の種なしパン「マッツァ」に起源があるとされるため、「餅は神聖な、特別な食べ物」と言うイメージが定着したのだ。

日ユ同祖論とは、「日本人は古代イスラエル人の子孫である」とする説である。私は過去2回、この説にはまった。だが今ではこの説を批判している。実際に深く身を置いていたからこそ、その危険さがわかるのだ。但し、あくまで「批判」であって必ずしも「否定」ではない。つまり、古代イスラエル人の「一部」が日本列島にやって来て日本人の先祖の「一部」になった可能性までは否定しないが、日本人が聖書で言うところの「契約の民」「選民」としての「イスラエルの子孫」であるとする考え方は批判すると言うことである。

日ユ同祖論の根拠には、冷静になって考えれば偶然やこじつけと思われるものが少なくない。例えば「イザナギノミコト」の「イザ」は「イザヤ」から来ている、というのがあるが、「イザヤ」は本来の発音であるヘブライ語では「イシャヤウ」なので、無理がある。

しかし、それらを差っ引いてもなお説得力のあるものがあるのも確かである。そのひとつが「正月=過越祭起源説」だ。どちらも新年の祭である。正月の前には大掃除をするが、過越祭の前にもパン種を取り除くために大掃除をする。過越祭には普段と異なる種なしパン「マッツァ」を食べるが、稲作文化圏の日本でこれと似たようなものを作ると「モチ」になる。このほか、幕屋・神殿と神社の構造の類似、「穢れ」の概念の類似などが挙げられるだろう。

だから、イスラエル系の人々が日本に渡来して日本の文化に幾ばくかの影響を残した、という事実はあったのかも知れない。(但し、イスラエル人のうち、どの系統の人々が、いつどのようにして日本に来たのかは、多くの人々が様々な説を唱えているが、すべて憶測の域を出ておらず、新たな考古学的発見でもない限り特定することは不可能である。)しかしそれをもって、日本人を、聖書が意味するところの「イスラエルの子孫」と見なすことはできない。聖書が言う「イスラエルの子孫」とは、神がアブラハム・イサク・ヤコブと交わされた祝福の契約の地位を継承する民族のことであり、それは現在のユダヤ人である。

日ユ同祖論者は、聖書に記された由緒あるアブラハムの血統をつなげることにより、どうにかして自分たちに「箔」をつけたいのであろう。かつて戦国時代や江戸時代の大名たちが、系図の捏造や売買さえ行ってまで、自分たちの先祖は源氏や平氏であると称していたように。この思考に陥ってしまったのが、明治時代アメリカに留学した一部の牧師たち(小谷部全一郎、酒井勝軍、中田重治など)であった。西洋のキリスト教文明に触れ劣等感を抱いた彼らは、その根幹を成すユダヤ文明と自分たちがつながっていると主張することで、彼らと対等になろうとしたと言われている。

あるいは、イスラエルの子孫に約束された祝福を手に入れたいと考えているのかも知れない。しかし彼らは、このことを見落としている。すなわちイスラエル人たちは、神に選ばれたが故に祝福と同時に苦しみも賜ったのだということを。彼らは選民であるが故にサタンに目をつけられ、人々から迫害され、差別され、中傷され、妬まれ、追放され、財産を奪われ、虐殺され、虐殺され、虐殺され、ガス室に送られ、民族存亡の危機に何度も立たされ、戦争を仕掛けられ、テロを仕掛けられ、ロケット弾を撃ち込まれ、人質にとられてきたのである。日ユ同祖論者たちは、日本人がイスラエルの子孫だと言うなら、自分もこれらの苦しみを受ける覚悟はあるのだろうか。結局のところ、イスラエル人の祝福だけを手に入れ、苦しみは避けようとする、都合の良い卑怯な思想ではないのか。

日本人が「イスラエルの子孫」ではない何よりの証拠。もし日本人がイスラエルの子孫であるなら、「約束の地」であるイスラエルの地(パレスチナ)に日本人が大挙して「帰還」するという現象が起こるはずである。現に、かの地にはユダヤ人たちが世界中から帰還し、国を建て、聖書の預言を成就させているのだ。ところが日本人が民族を挙げてイスラエルに移住するという兆しは全くない。なぜなら、日本人は「日本列島」という「約束の地」を既に持っているからである。明らかに日本人はイスラエル人とは別の独立した民族、いわゆる「異邦人」である。それとも日ユ同祖論者たちは安定した日本の生活を捨て、割礼を受けてユダヤ教に改宗し、イスラエルに移住してヘブライ語を覚え、兵役に就いて国を守るために戦う覚悟もあるのだろうか。ユダヤ人たちはそれをやっているのだが。

日ユ同祖論は一見親ユダヤ的な思想である。事実、日ユ同祖論を入り口としてユダヤ人に関心を持ち、彼らに好意的になる人々もいる。中田重治がそうだったし、私もそうだった。しかし実際は、日ユ同祖論から反ユダヤ主義につながる場合も少なくないのである。「日本人こそ、古代イスラエル人の血を引く正統な子孫である。では今のユダヤ人は何なのかというと、ユダヤ教に改宗したハザール人の末裔の、偽イスラエル人だ」という具合に。これは一種の置換神学であり、立派な反ユダヤ主義だ。

だが、日本人の中にどの程度イスラエルの血が流れているかわからないが、「イスラエル人の血を引いていること」が「イスラエルの子孫」の条件ではない。「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。ローマ9:6〜7」とあるとおりである。ユダヤ人の中から生まれたイエスこそが、究極の「イスラエルの子孫」だ。「約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、『子孫たちに』と言って多数を指すことなく、一人を指して『あなたの子孫に』と言っておられます。それはキリストのことです。ガラテヤ3:16」このイエスの十字架の贖いにより、イスラエルへの祝福は、異邦人にももたらされた。イエスを信じる者は誰でも、イスラエル人の血を引いていなくても、イスラエル人の子孫であることを装わなくても、みな「イスラエルの子孫」なのである。

「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。ガラテヤ3:7」

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