イスラエルを祝福する信仰への批判として、「旧約聖書を強調し過ぎている。旧約聖書は、新約聖書の光で照らさなくては正しく読むことはできない」というものがある。「旧約は新約に照らさなくてはならない」というのは全くもって同意する。しかし、逆に私は問いたい。「あなたたちは旧約聖書を軽視し過ぎていませんか?」と。繰り返すが旧約を理解するには新約の光に照らす必要がある。だが一方、新約を正しく理解するには、その前提となっている旧約、もっと言えばユダヤ文化を深く知る必要がある。
新約聖書も、このことを語っている。ルカ16章の「金持ちとラザロ」の話に於いて、アブラハムは「彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。」と言っている。モーセ(律法)と預言者、つまり旧約聖書の言うことに従えというわけだ。死者の中から誰かが生き返って行けば、みな言うことを聞いて悔い改めるだろうと食い下がる金持ちに向かってアブラハムは反論する。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」と。旧約聖書に真の意味で従っていなかったパリサイ人らが、イエスの復活に接しても信じようとしなかったことが暗示されている。つまり、旧約聖書を軽んじる者は、イエスの復活を証言する新約聖書をも軽んじるのである。
むしろ新約聖書は、「使徒たちと預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。エペソ2:20」と語っている。「使徒たち」つまり新約聖書と並んで「預言者たち」つまり旧約聖書も引き続き信仰の土台であることが証言されているのだ。
「新約聖書の光で照らして旧約聖書を読む」と称しながら実際は「旧約聖書を軽視」している者が陥りがちなのが、「旧約聖書の『イスラエル』を『キリスト教会』に置き換えて理解する」という考え方だ。これを「置換神学」と呼ぶ。
例えば、多くの人々が暗唱している有名な聖句、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:3」がある。この箇所を、私たちクリスチャン一人ひとりに当てはめ、「自分は神に愛されている」と感動する読み方。それはそれで、適用の仕方として間違いではない。しかし、文脈で見るならば、この箇所で対象となっているのは「クリスチャン」でも「私」でも「教会」でもななく、あくまで「イスラエル」である(1節参照)。神が「愛している」と述べているのは、第一義的にはイスラエルなのである。そう見ればこそ、続く5節以降「わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。北に向かっては『引き渡せ』と言い、南に向かっては『引き止めるな』と言う。」が生きてくる。これは正に現代、世界中からユダヤ人たちがイスラエルに帰還するという形で文字通り成就している光景だ。神が、ユダヤ人を永遠に変わらず愛しておられるからこそ起こっている出来事であるとわかる。しかし置換神学で読むと、その辺がぼやけてしまうのである。
ところが多くのクリスチャンは、自分でも気づかないうちに、この置換神学に染まってしまっている。旧約聖書を読んでいて「イスラエル」という語が出てくると、無意識に「私」や「教会」に置き換えてしまうのである。それぐらいならまだいい。恐ろしいのは、置換神学から反ユダヤ主義が発生したことだ。「イスラエルの地位はキリスト教会に置き換えられた。そして、旧約のユダヤ人は、キリストを殺した故に呪われた民となった。旧約聖書の祝福は教会に、呪いはユダヤ人に適用される」という考え方である。この思想は早い段階から教会の中に入り込み(だからパウロはローマ9 〜11章で警告を発している)、ヨーロッパ諸国に於けるユダヤ人迫害の数々、究極的にはナチスのホロコーストを生み出し、今日もなお世界中で猛威を奮っている。だがそれは神に敵対することである。
置換神学は、遠い世界の問題ではない。今回見てきたように、私たちのごくごく身近なところにまで浸透している。だがそれは正しい聖書の読み方ではない。新約で照らして旧約を読むと同時に、旧約を知った上で新約を読むという聖書の読み方を大事にしたい。そうすると、イスラエルを祝福する信仰が自然と出てくるはずだ。
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