岩城聰著『鳥瞰するキリスト教の歴史』(ベレ出版)を読んだ。キリスト教の通史であるが、一般史に関する記述も多く、その枠組の中でのキリスト教の位置づけがわかるようになっている。平易な語り口で読みやすかった。著者が聖公会の牧師であるためイングランド国教会・聖公会の記述が詳しいが、それがまた貴重である。
一方、「信徒以外の方にも理解していただけるように、できるだけ客観的な記述を行うように心がけました」とのことで、聖書に記された奇跡の真偽などについては「本書の主題から外れます」との立場をとっている。
そこまでならまだわからなくもないのだが、気になったのは、アメリカにおけるキリスト教の歴史に関する章の中の、「福音派」(「宗教右派」「キリスト教原理主義」とも呼ばれる)に関する記述だ。福音派とは「聖書の言葉はすべて聖霊の導きによって記されたもので、一言一句誤りがない」とする聖書の読み方をするグループで、こういう立場を「ファンダメンタリズム」「逐語霊感説」と呼ぶ。著者はこの「福音派」「ファンダメンタリズム」のことを、否定している、もっと言えば馬鹿にしているようなのだ。
「聖書の無謬性を前面に押し出し、天地創造の記述をそのまま実際に起こった出来事と捉え」て進化論を否定する「クリエイショニスト」の姿勢を呆れたように記述し、「彼らの創造観に基づく『創造博物館』さえ立ち上げています」と述べている。「さえ」という表現に皮肉、嘲りを感じる。そして、その予感は最終章で的中する。
最終章では、かなりの紙幅を割いて「パレスチナにおけるシオニストの暴力的支配」について解説されている。イスラエル建国はパレスチナ人に対する「土地の収奪」「民族浄化政策」である、などと痛烈に批判する文脈に於いて、「キリスト教右派(福音派)」が「イスラエル国の占領政策を支持している」と指摘している。
また、「シオニスト」がパレスチナから土地収奪をする根拠としているのが旧約聖書のアブラハム契約であり、彼らはそこから自分たちに「都合の良い『土地の神学』を組み立てて」いるとしている。このように「シオニスト」たちが聖書を「字義どおり」、「都合良く切り取って使う」のは、「キリスト教原理主義者、つまり福音派」が彼らを「強力に支援し」「育て上げた」からだと分析している。
イスラエル建国とその後の発展を、どうして聖書預言の成就、神のみわざとして見ることができないのか。いや、それは「本書の主題から外れ」るから無理かも知れない。だとしても、一方的にイスラエルを悪い侵略者、パレスチナをかわいそうな被害者と見なし、その責めを福音派に負わせて批判するというのは、全く「客観的」とは言えないのではないか。
実は著者は、パレスチナ問題と福音派について語り始めるに先立って、次のように述べている。「キリスト教は旧約聖書も新約聖書も双方とも『聖書』として教えの原典とするけれども、同じ比重で大切にするわけではないということをはっきりさせなければなりません。旧約聖書は新約聖書の光に照らして理解しなければなりません。」……ほら、出た。「旧約聖書は新約聖書の光に照らして理解しなければなりません。」私は少し前に、この言い分自体は全くそのとおりだが、そう言う人は往々にして新約聖書ばかりを重んじ旧約聖書を軽視していると指摘した。(「聖書の読み方と置換神学」 http://cavazion.seesaa.net/article/509458929.html 参照。)この著者は正に、旧約聖書より新約聖書に比重を置くべきだと述べ、旧約聖書を軽んじているではないか。しかし、旧約聖書は新約聖書に照らして読む必要があるが、同時に、新約聖書は旧約聖書を土台・前提として成り立っていることを覚えるべきである。
……と、「福音派」「ファンダメンタリスト」「キリスト教原理主義者」を自認する私は思うのであった。
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