ルカ16:19〜31にある「金持ちとラザロのたとえ」について。ある人々はこの箇所はたとえ話ではなく実話であり、死後の世界観について語ったものであるという。「よみ(ハデス)」は「地獄(ゲヘナ)」とは別であるとして、死後の救い、いわゆる「セカンドチャンス」の根拠とされることもある。しかし私はこの箇所はあくまでたとえ話であり、その主題も死後の世界とは別のところにあると考える。
それには、16:14、更には15:1まで遡って文脈の流れで見る必要がある。 この金持ちは、16:15の「金銭を好むパリサイ人たち」を表している。対してラザロは、15:1の「取税人たちや罪人たち」を表している。パリサイ人たちは自分の行いを正しいとし(16:15)、「アブラハムの子孫」としてその血筋を誇っていた。しかし、死後「アブラハムの懐(16:22)」に連れていかれたのは、パリサイ人ではなく、彼らが蔑んでいたラザロ:取税人や罪人たちであった。この人々は、「福音」を聞いて悔い改め、「力ずく」ででも「神の国」に入ろうと求めていたからである(16:16)。
さて、よみで苦しみ、もはや救われる見込みがないと悟った金持ちは、家族のもとにラザロを遣わして警告するようにアブラハムに頼むが、「彼らにはモーセと預言者がいる」と一蹴される。「もし、死んだ者たちの中から、誰かが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう」と食い下がる金持ちを、アブラハムは「モーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と切り捨てる。
「モーセと預言者」とは、つまり旧約聖書のことだ。パリサイ人たちは、表向きは旧約聖書を重んじているようだったが、実態は言い伝えによってその教えを空文化していた。離婚に関する彼らの規定がその例だ(16:18)。このように旧約聖書を軽んじていた彼らは、実際にイエスが死人の中からよみがえっても信じなかったのである。
モーセと預言者が旧約聖書なら、イエスのよみがえりは新約聖書と言えるだろう。多くのクリスチャンが新約聖書を過度に重んじ、旧約聖書を軽視する。しかし、実は、旧約聖書を軽んじる者は新約聖書をも軽んずることになる。なぜなら、「律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しい(16:17)」からだ。新約聖書はあくまで旧約聖書を土台に成り立っているのである。
この話は、それを伝えるためのたとえ話なのではないか。ついでに言うと、あくまでたとえ話なので、この箇所からよみと地獄の違いやセカンドチャンスの可能性など死後の世界に関する詳細を導き出そうとするのは無理があると思う。

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