戦争に関するある文章を読んで、深い憂慮を覚えたこと。
一体いつまで、日本はアジアへの謝罪を続けなければならないのだろうか。教会は、日本に戦争の罪、「侵略」の罪を悔い改め謝罪するよう呼びかけるが、それに対する「赦し」を語ることはない。しかも、日本は南京大虐殺や従軍慰安婦など、実際にはなかった(少なくとも議論のある)問題に関してさえ激しく咎められているのである。それが当たり前な真実であるかのように、我々は日教組の教育によって教え込まれてきた。
日本は、深く傷ついている。その反動で、「日本は優れた国だ」とか「日本人ファースト」のような声が今高まっている。しかし日本に今必要なのは、「赦し」と「慰め」だ。子どもたちに負の遺産を引き継ぐことはやめて、このようなことは私たちの世代でもう終わりにしよう。
また、憲法9条であるが、まるで聖書と同等かそれ以上の不磨の大典として守ろうとする教会をしばしば見受ける。しかし、憲法9条は神から出たものではない。人が作ったものだ。
憲法9条の平和主義の背景は前文に現れていると思う。「日本國民は、恒久の平󠄁和を念願し、人間相互の關係を支配する崇高な理想を深く自覺するのであつて、平󠄁和を愛する諸國民の公󠄁正と信義に信賴して、われらの安全󠄁と生存を保持しようと決意した。」とある。しかし、ここで謳われている人間観は聖書の主張する人間観と真っ向から対立する。
聖書は人間がみな生まれながらに罪を持っており、その思い図ることはみな悪だと述べている。だから「人間相互の關係を支配する崇高な理想」「平󠄁和を愛する諸國民の公󠄁正と信義」などというものは存在しないのであって、このようなものに信頼して平和を築こうとするなら、こんな危なっかしいことはない。同じ人の作ったものなら、まだ在日米軍や自衛隊のほうが現実的だし、実際日本が戦争せずに済んだのは憲法9条ではなくこれらの存在のおかげだろう。
また憲法9条の聖書的根拠を「殺してはならない」に求める考えもあるが、「殺してはならない」に死刑や戦争が含まれないことは明白である。前後の文脈を見ていけば、死刑の規定や戦争の命令があるからである。
ともかく、「赦し」と「慰め」にせよ、平和を作る真の力にせよ、イエス・キリストの十字架の下にある。日本がキリストにあって贖われることを祈りつつ、子どもたち、若者たちが戦争について改めて考えることができるよう願っている。

この記事へのコメント