イスラム教を鑑にヤハウェの愛を知る

平野貴大著『シーア派 起源と行動原理』(作品社)を読んだ。イスラム教の2大教派の内、現在では特にイランなどで信仰されている、シーア派について解説された本である。尚、もう一方がスンナ派だ。学者の書いた固そうな本で、ボリュームもあり、一見とっつきにくそうだが、言葉づかいなども意外と読みやすく(1991年生まれと言う著者の若さのおかげもあるかも知れない)、内容も興味深くて、一気に読むことができた。

まず、スンナ派とシーア派の違いだが、要は預言者ムハンマドの後継者争いに端を発している。ムハンマドと直接血縁関係のない有力信徒を後継者(カリフ)に据えたのが、多数派である、後のスンナ派だ。対して、ムハンマドのいとこにして娘婿でもあるアリーを後継者(イマーム)と認めるのがシーア派である。力か血筋か、といったところか。この双方は激しく敵対し、殺し合い、戦争をした。だから現在でも、同じイスラム教とは言えどもスンナ派とシーア派はあまり仲が良くない。スンナ派の雄サウジアラビアと、シーア派の雄イランの間に対立があることは知られている。(近年関係改善も見られたようだが。)

さて、血筋にこだわったからだろうか、イマームの地位は代々世襲されていく。ところが、12代目イマームが消息不明になってしまう。(これをガイバ[お隠れ]と言う。)シーア派(の中にも更に分派があって、ここでは現在主流となっている「十二イマーム派」を指す)の教えでは、12代目は今もどこかで生きていて、やがて世の終わりにメシア(マフディー)として再臨し、世界をさばくのだという。どこかで聞いたような話だ。

血筋と言えばおもしろいのは、歴代イマームは通婚によって各地の名家とつながっているという話。ムハンマドばかりではなく、ササン朝ペルシアの王家、ビザンツ帝国の皇帝家、更には使徒ペテロの血筋まで引いているのだという。イエス(アラビア語名イーサー)はイスラム教でも預言者の一人されていて、ペテロもイエスの後継者として敬われているそうだ。

それにしても、その歴史の始まりから暗殺、戦争、また暗殺の繰り返し。一説によると、歴代イマームは全員暗殺されたか戦死しているという。巻末に、「アーシュラー」という祭で唱えられる祈祷文が収録されている。これはスンナ派軍と戦って死んだ3代目イマームのフサインを記念する日なのだが、祈祷文の始まりから終わりまで、呪い、呪い、呪い。敵に対する恨み、怒り、憎しみで満ち満ちているのだ。正直、読んでいて気が滅入ってくる。

そりゃ、キリスト教だって他人のこと言えた義理ではない。十字軍とか、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争とか、色々やらかしている。でも、少なくとも歴史の始まり段階では、「互いに愛し合いなさい」という教えを実践していた。実践しようと努めていた、と言った方が正確か。もちろん、コリント教会に見られたように分裂・分派や異端の発生などもあったわけだが、むしろそういう時こそ愛の試されるところで、少なくとも殺し合いなどはしていなかった。

とにかく、イスラム教の神「アッラー」に、愛が全く感じられないのだ。「慈悲深きアッラー」などと唱えられるくらいだから、イスラム教徒にとってはそれなりに「愛」のある神なのであろうが、その愛は、キリスト教の神「ヤハウェ」の愛とは質が違う。ヤハウェの愛は、「敵」であった私たちのために、ご自分のひとり子のいのちさえ惜しまずに与えられた愛である。あるいは、「神に子などいない」というイスラム教の教えに合わせるなら、三位一体なのだから、「神ご自身のいのち」と言い換えても差し支えない。

イスラム教をディスりたいのではない。ただ、イスラム教(今回は特にシーア派であったが)について学んでみた時に、それを鑑として、自分の信じているキリスト教の神、聖書の神、ヤハウェの愛が何と素晴らしいか、改めてわかったということである。

最後に一点。本書の中で何度か、2023年のハマスによるテロとそれに伴うイスラエルのガザ攻撃について言及されている箇所があるのだが、「イスラエルによるガザ蹂躙」という表現がなされていた。著者は研究のためイランを訪れることもあるようだが、立場上、どうしても「そっち寄り」の見方になってしまうのかな、と思った次第である。



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