私が、イスラエルに関心を持つようになった、そもそもの理由。
まずは、幼稚園の時から教会に通い聖書に親しんできたことである。何しろ幼い頃から「イスラエルの人たちは海を渡ってエジプトから救われました」とか「ダビデがゴリヤテを倒してペリシテ人からイスラエルを救いました」とかいった話を聞いてきたのだから、イスラエルに親近感を覚えて当然だ。だから、当時から、行ったこともないイスラエルが大好きだった。地図帳を見ては妙に入り組んだ国境線の外側にベツレヘムやエリコがあることを不審に思ったし(パレスチナ自治区ができる前の話)、教会学校の先生が「聖書のイスラエルと今のイスラエルに関係があるかどうかはわからない」という意味のことを言った際には「何寝ぼけたことを言ってるんだ」と思ったのを覚えている。
だが、早くから信仰を持っていたことは、私の中に歪んだ思いをももたらした。私は自分のことを「選民イスラエル」と見なし、神を知らない周囲の未信者たちを「穢れた異邦人」と見なして忌み嫌っていた。未信者と関わるのが嫌だから伝道が嫌で、伝道熱心な周囲のクリスチャンに反発もした。そんな自分の考えが間違っていることはわかっていたが、一生克服できないだろうと思い悩んでいた。
一方で、「本物のイスラエル」に対する興味も芽生え、イスラエルについて学ぶようになった。(はじめは日ユ同祖論に傾倒したが、この説には疑問があり、後に放棄した。)そのおかげで、少なくとも血肉の上では、自分はイスラエルではなく異邦人であることを認めさせられたのだった。不思議な導きで、あるイスラエル支援団体と出会い、その伝手で今通っている教会やそこの牧師と初めて知り合ったのはこの頃である。(尚、私の「選民意識」が徹底的に砕かれるには、更に病気と入院の体験を要したが、本題から外れるのでここでは触れない。)
もうひとつ。韓国を訪れた時のこと。ある大きな教会で、(通訳を介して)礼拝説教を聞いた。ローマ11章から、イスラエルの回復についてだった。「イスラエルがつまずいた時、異邦人にキリストの救いがもたらされた。ましてや、彼らが完成する時には、どれほど素晴らしい祝福が世にもたらされるだろうか。」説教者は明言しなかったが、私はそれは「再臨」だと思った。「だから、私たちは中東で起こっていることを単なる政治の問題として見るのではなくて、信仰の目で見なければならない」というような話だった。この説教で学んだことが、今も私のイスラエル理解の基礎となっている。
これらの背景があって今の私があるわけである。
(本稿は、教会の文集に載せた証しに加筆したものである。)

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